革新的な治療技術

心に固着した悪意

純粋な悪意とは、無差別の加害欲求です。何でも良いから、誰でも良いから、攻撃して危害を加えたい。この思いが、殆どの人の心に潜んでいます。固着して、外れなくなっているのです。

一義流気功は、世界で初めて、この固着した悪意を外す技術を開発しました。

悪意の正体と理性

悪意は欲求ですから、ただ単純に満たされたがっています。けれども人には理性があります。理性とは区別する能力で、分別です。理性が機能する分野では、正しく善を選択できます。理性は悪意の無差別性に、蓋をしているのです。
悪意が強くなればなる程、理性は譲歩を迫られます。ダイエット中の人が強い食欲に押されて、「今日は、いっぱい歩いたから大丈夫だよね?」「明日から頑張れば良いよね?」と譲ってしまう。理性と悪意との関係は、これによく似ています。
譲歩を迫られた理性は、攻撃性を向けても良い理由を探します。善良な人間、無垢な子供などには、そうそう悪意を向けられるものではありません。通常の精神状態であれば、固く理性で蓋がされています。しかし、自分や身内に危害を及ぼした加害者や醜悪な悪人であったら、どうでしょうか? 人によって程度の差はありますが、善良な人間や無垢な子供に比べたら、攻撃しても構わない(あるいはマシ)と感じられるのではないでしょうか。他人の落ち度に対して、過剰とも思える攻撃をする人物像が、この図式で説明できます。
復讐と制裁は、もっとも悪意が入り込みやすい領域です。強い攻撃性を向けても正当だとしてくれる、大義名分を与えてくれます。
また教育・指導の分野にも、悪意は簡単に入り込みます。「教育だから、厳しくするべきだ」という意識がそこにはあるのですが、実は、攻撃自体が動機になるケースが多いのです。教育だから、相手のためだから、という大義名分が悪意を招き入れます。ミスや至らなさに対して、罵声や暴力が過剰になります。
子供の虐待死は、後を絶ちません。その供述を見ると、「そこに居るだけでムカつくから、殴ってやった」はありません。大抵は、言うことをきかない、食事を残した、目つきが反抗的だった、など子供に落ち度(と親は判定している)ものが前提にあります。
いじめ問題、あらゆる差別問題、戦争や紛争などの背景にも、大きくこの悪意の存在が絡んでいます。

悪意は自分をも傷つける

悪意という言葉から、イメージされる色は何でしょうか? おそらく大多数の方が、黒と回答すると思います。少なくとも、綺麗な爽やかな色にはならないでしょう。
悪意に支配された心は、暗くドロドロとして、決して幸福な世界ではありません。攻撃性などによって高揚し、一種の快感はあるかもしれません。快感はあっても、幸福はない。それが悪意の世界です。ですから復讐を果たした多くの人が、その行為や後の気分を「虚しい」と言うのです。
真の理性は常に、悪意を手放したがっています。けれども悪意の固着は、理性がどう頑張ろうと外れてくれません。

悪意を解体すると……

治療現場では、悪意を解体する前、恨んでいる人の有無を確認しています。もしもいるなら、リアルに復讐をイメージしてもらいます。暴力でも、罵詈雑言でも、社会的地位の失墜でも、恨みの種類や性格、精神状態によって方法は変わってきます。現実ではないイメージでも、心にとっては、実際に復讐を果たしたのと同じように受け取れます。そこには必ず、快感があります。暗い陰湿さを伴う気持ち良さです。
固着した悪意を解体し、0にします。その後に、また同じ復讐のイメージです。……すると、気持ちが乗りません。先ほどの快感はなく、どうでも良いと感じています。その時、殆ど全ての人は驚いた表情を見せます。許した覚えはまったくないのに、どうでも良い。そもそも関心が無くなっています。
許すとは、理性が許可を取り消す作業です。無差別の加害欲求に対して、理性はこんな妥協をしていました。
「自分は被害者だから、加害者に悪意を向けて良い」
つまりは、権利意識のようなものです。許す本質とは、相手に悪意を向けても良いとする権利の放棄です。
この場合には、権利も放棄も何も、そもそも悪意の方が無くなってしまっているという訳です。
また悪意の解体後は、怒りが様変わりします。
怒りは理性の勢力を弱めて、攻撃性を増します。悪意によって怒りは激しくなり、冷めるのも遅くなります。怒りと共に、自分の心がドス黒くなっている意識もあります。
これが、怒りは大人しくなり、パッと怒って短期間ですぐに鎮静化されるようになります。ドス黒いドロドロした気持ちにもならず、爽やかです。